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江戸時代 加賀藩の測量について |
新湊市博物館には江戸時代後期を代表とする和算家・測量家の石黒信由以下4代の遺品(高樹文庫)が展示されています。信由は、宝暦10年(1760)射水郡高木村(新湊市高木)に生まれ、最高水準の和算・測量術・絵図作成技術を身に付けていました。文政2年(1819)加賀藩から越中・加賀・能登(富山県・石川県)の測量を命じられ、5年後にきわめて正確な絵図を藩に提出しました。その精度は高く、同時代の測量家で日本全図を作製した伊能忠敬の業績に並ぶものです。信由の学問・技術は息子信易、孫信之、北本半兵衛、ひ孫信基に受け継がれ発展しました。高樹文庫資料は和算書・絵図・古文書など1万2千点余にのぼり、調査研究が進められています。今回はその膨大な資料の中からほんの少しだけのご紹介とします。 |
和
算 |
測量技術の基となるのは、今も昔も変わらず数学です。当時の日本は和算を用いてました。300年にわたって鎖国が実施され、外界からの刺激を受けてはいませんでしたが、和算のレベルは世界に引けをとりませんでした。和算学者の関孝和と弟子たちはドイツのライプニッツやイギリスのニュートンと同時期に微積分の概念に達していました。明治になって国策上洋算に切り替わった時、教えにきた欧米からの数学教師が日本人からの目で見れば幼稚に見えたという記録が残っているほどです。信由は関流和算を習得し測量技術に生かしていました。 |
信由図の系譜 |
1.加賀四郡村々組分絵図 文政8年(1825)石黒信由
文政2年(1819)加賀藩は石黒信由に越中・加賀・能登(加越能三州、富山・石川県)の測量を命じました。信由は、3年半かけて領内をくまなく歩いて測量し、文政7年(1824)までに郡単位の郡図10枚、翌8年
国図3枚と三州図を藩に提出しました。これらの絵図はきわめて正確で、同時代の測量家伊能忠敬の業績に並ぶものです。この絵図は加賀国図の下図で、
作成途中のものです。縮尺は1里1寸8分(1/72000)です。
2.能登四郡村々組分絵図 文政8年(1825)石黒信由
越中・加賀とともに藩に提出した能登の国図(控)です。能登半島の正確な姿が絵図に描かれました。村の位置を○で表し、その中に十村組分の番号、脇に尊名を記しています。また、平野と山地を山麓線で区別し、山地を萌黄色、道を朱、海・川・潟を青で描いています。縮尺は1里1寸8分(1/72000)です。
3.射水郡村々組分絵図 天保9年(1838)石黒信之
4.砺波郡村々組分絵図 天保9年(1838)石黒信之
5.新川郡村々組分絵図 天保9年(1838)石黒信之
6.婦負郡並びに新川郡之内村々組分絵図 天保9年(1838)石黒信之
信由が没して2年後の天保9年(1838)、藩は信之に各郡の郡図10枚12セット、合計120枚の提出を命じました。信之は、信由が作った絵図をもとにして作製しましたが、殿村津幡江村喜兵衛ら信由の弟子たちも手伝いました。縮尺は1里1寸2分(1/108000)です。信由が文政7年までに提出した郡図(1/36000)と比べて、かなり小型のサイズに仕立てられました。信由の郡図には垣内(村内の小集落)が記されていますが、この天保9年郡図には書かれていません。
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信由の初期の測量術
信由は、測量の目的やその場所の広さ、作製する絵図の縮尺の大小によって、さまざまな測量術を使い分けました。
例えば、検地や新田開発など、田畑の面積を求めるには、十字法・三斜法という二つの方法を用いました。また、村や潟、屋敷などの絵図を作るときは、廻分間(廻検地)という測量を行ないました。
信由は、いろいろな測量方法の使い分けを経験するなかで、測量器具の工夫・改良を重ねていきました。
十字法
その土地の形に近い長方形をいくつもつくり、タテ・ヨコに直角に交わる縄を十文字に張って面積を計算します。
三斜法
土地をいくつかの三角地に細かく分けて、面積を求めます。
十字法と組み合わせ、その精度を高めました。
廻分間
土地の外周を順番にまわって、距離と方位を測り、一周して元の地点にもどります。この方法は、能登半島などの広い地域を測るときにも役立ちました。 |
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1.加賀四郡村々組分絵図 文政8年(1825)石黒信由 |

2.能登四郡村々組分絵図 文政8年(1825)石黒信由 |

3.射水郡村々組分絵図 天保9年(1838)石黒信由 |

4.砺波郡村々組分絵図 天保9年(1838)石黒信由 |

5.新川郡村々組分絵図 天保9年(1838)石黒信由 |

6.婦負郡並びに新川郡之内村々組分絵図 天保9年(1383)石黒信由 |

7.鳳至珠洲奥郡略絵図 安政期以降(1854〜)北本半兵衛 |
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